・・・・・魂のルネッサンス 心と魂の解放 ・・・・・
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<第7章-3>     天国・地獄

死後の世界は、はっきり言って、必要ありません。
個としての魂は、宇宙の魂の許へ還り、魂の断片は集団の中に受け継がれていく。
これで充分です。

受け継ぐ集団の方で、魂の断片の中から「この部分は必要だ、この部分は要らない。」
と、選別することはあるでしょう。
キリスト教やユダヤ教イスラム教ゾロアスター教で言う「最後の審判」は、*
これを比喩的に表しているのかもしれません。
民族や宗教が、相争って決着すると言うという意味でもなく、*
勧善懲悪の争いでもありません。*
同じ人類として、共に生き残る為の懸命な模索を、比喩的に表しているものと考えます。*

(「*」印ヶ所、2010年10月16日修正及び加筆)


「いつ、誰が、どんな基準で選別するか。」なんて、誰にも分かりません。
いつの間にか、集団が生き残りを賭けて自然に選択している。
その選択を誤れば、その集団は淘汰され、バラバラになって別の集団に吸収されていく。
それが、伝統とか文化というものの正体です。

執着を全て無くし、煩悩を滅する事は、4次元の中では不可能です。
7次元の中で初めて可能になる事ですから、
生きたまま、最終解脱することは不可能です。
7次元の中では、個と言う概念は成り立たないから、
何れにしても、個人として、最終解脱することは不可能です。
「最終解脱している」と自分で言う者がいたら、間違いなく偽物です。
ただ、限りなく解脱に近づける人はいるかもしれませんが。

極楽浄土へ往くと、阿弥陀様の下で修行して悟りを開けると言うのも気休めです。
神様は、慈悲の7次元DNAとなって、いつも見守っていて下さっています。
この世で、神様の慈悲を想いながら、日々暮らす事が、修行です。
これは、考えようによっては、この世が、既に一つの「浄土」であることを意味しています。*
こう思えば、私達は、それぞれが想う慈悲の浄土を選び、生まれてきたとも言えます。*

(「*」印ヶ所、2011年1月31日修正及び加筆)


世界の距離は縮まっています。
人類全体としての魂が、はっきりしてくる頃かもしれません。
いつの日か、人類全体としての魂が、人類全体の生き残りを賭け、
より良き魂に成長する事を願います。
これは、この地球が、全ての人にとっての「浄土」となる事を意味します。*

ただし、極楽浄土ではないでしょう。*
なぜなら、極楽浄土なら神様の慈悲のお言葉(神様の声)を十分に理解できますが、*
私達には理解できず、不可思議光としておくしかない状態は、いつまで続くか分かりません。*
弥勒菩薩の時代まで待つことになるのかもしれません。*

修正:2009年8月22日





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