・・・・・魂のルネッサンス 心と魂の解放 ・・・・・
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<第5章-1>     神様の所在、無為自然の不可思議光

私達人間は、自然科学を始めとした学問によって、
7次元に込められた諸法則の一端や
ここから派生した諸法則(この世の諸法則)の一端を、知ることができました。
それが、ほんの一握りなのか、それとも、大部分なのかは、分かりません。
ただ、ややもすると、分かっている事だけに頼りきり、埋没してしまいます。
そうすると、道が限られ、身動きの取れない閉塞社会になってしまいます。

たぶん、まだまだ、私達人間に分からないことが、沢山あるはずです。
これは、不可思議な働きとしておくしかありません。
一方では、だからこそ、新たな道の見つかる可能性が残されているとも言えます。
一縷の光明でもあり、これを不可思議光と呼ぶことにします。

7次元の諸法則は、不可思議光も含め、例外なく、4次元世界で遍く働いています。
不可思議光も含めた7次元の諸法則は、私達の宇宙がどう変わろうと、変わりません。
もし、絶対的なものを「神様」と呼びたいのなら、この7次元の諸法則しかないでしょう。
神様もまた成長されると考えるなら、宇宙の魂を神様と呼ぶこともできるでしょう。
しかし、私は、神様の心や魂を、あれこれと詮索したくはありません。
そこで、私達の宇宙がある限り不変で普遍なもの、
即ち、7次元の諸法則を「神様」と呼ぶことにします。
神様は、「慈悲の7次元DNA」に宿り、宇宙に遍く広がっています。

神様の働きは、不変で普遍に及んでいます。
えこ贔屓することなく、平等に及んでいます。
無為自然です。

修正:2009年8月15日


神様はどこにいるの?
と、不安になったら、
「神様は、ありとあらゆる所にいて、慈悲の心で、じっと見守っていてくださっている。」
と、思ってください。

慈悲の7次元DNAは、神様の乗り物であると同時に、神様の分身です。
私達が生きているこの4次元世界の感覚としては、
極限まで小さくなり、無数に散らばる微粒子のような存在であり、
また、見えない7次元世界では、一体的な存在でもあります。
(ちょうど最近話題になった、「ヒッグス粒子」に似たようなものでしょう、多分。)
(「表裏一体の色と空」のイメージ図で説明した、11次元世界におけるFです。)

あなたを包む空気の中にも、
身の回りのあらゆる物の中にも、
そして、あなた自身の体を作っている骨や肉や血の中にも、
どんなに小さなチリの中にも、
真空と思われるような、宇宙の隅々まで、
一切のありとあらゆる所に、宿っていらっしゃいます。

2013年3月11日追記

NEW
神様は、ありとあらゆる所、物質、空間に宿っていらっしゃいます。
寺院や礼拝所、祭壇、聖地にだけ神様が居る訳ではありませんが、
当然、そこにも、神様は宿っていらっしゃいます。

理由は分かりませんが、神様に向き合うために、人々が選んだ所です。
風習としては、祭壇を設け儀式をすれば、どこにでも神様を招くことができるようです。

いずれにせよ、私達人間は、神様に向き合おうとするときは、
古来より、何か特別なシツラエをしていたようです。
シツラエの中にだけ神様が宿るのではありませんが、
そのシツラエに、神様と向き合う時の心の姿勢が反映されているのでしょうね。

長い歴史の繰り返しの中で、そのシツラエは、年輪を重ねるように形づくられ、
そのようにして形づくられた物には、ある種の趣、即ちが込められているでしょう。
シツラエを使って神様に向き合おうとするときは、
古来からの人々の思いが、積み重なり凝縮した魂にも、向き合うことになります。
多くの宗教の経典や聖典も、こうしたものに近いでしょう。
聖人、高僧、宗祖と言われる人々の思いが、積み重なり凝縮した魂でしょう。

祈る人の意識が、自分の心の内と、どうにか付き合っていく為に、
あるいは、感謝の気持ちを分かち合う為に、
あるいは、集団を守っていく為にと、
色々求められ、年輪を重ねてきたのでしょう。
その時々に求められるものにより、魂は、変化して当然です。

こうした、宗教にまつわる魂には、千差万別の違いがあります。
どれが正しく、どれが間違っていると、合い争うことは不毛です。

魂というフィルターを通して感じ取るから、一部の面しか見えず、
千差万別の神様がいるように見えても、
元を質せば、一緒、みんな同じなのでは?
と、私は思います。

神様はどこにいるの?
あなたに寄り添い、慈悲深く見守って下さっていますよ。

2013年3月29日追記






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