・・・・・魂のルネッサンス 心と魂の解放 ・・・・・
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<第2章-3>     魂の行く先、来たる所

は、死ぬ時にどうなるのだろう。」と言う素朴な疑問は、宗教に付いて回ります。
結論から言えば、宇宙の全容を解明しなければ、正確な答えは、出せません。
宇宙論は、まだ証明されたものはありません。
しかし、正確な答えが出せないからと言って、この問いかけを無視することはできません。
実害がなく、しかも、受け容れたとき安心できる答えなら、それで十分だと思います。
随分と投げやりに見えるかもしれませんが、この条件を満たすのは、簡単ではありません。
各々の時代の状況によって、随分と変わってくるからです。

私の家は、浄土真宗の大谷派の檀家になっていますから、
親鸞聖人の教えには、親しみを感じます。(参考書207209)
しかし、だからと言って、正信偈の教えをそのまま受け入れる事もできません。
例え話としてなら、ある程度参考になるのですが。

親鸞聖人が最も尊重した経典「無量寿経」に、極楽浄土の成り立ちの物語があります。
阿弥陀様が、まだ包蔵菩薩であったとき、数ある仏の国土を見て良い点を選びとり、
これこそ自分の理想と確信し、開いたのが極楽浄土であり、
全ての人を救い取ろうと決意して開いた浄土であるとの物語です。
だから、極楽浄土の存在を信ずるならば、
阿弥陀様の存在も、阿弥陀様が必ず救ってくださると言う働きも信ずることになる。
論理としては明快です。
前提としての極楽浄土を開くまでのいきさつを信ずることができるかどうかが、
信仰に深く入れるか否かの別れ道になっています。

自分のような者が、救われるには、この道しか無い。
たとえ師匠の法然上人に騙されていたとしても、全くかまわない。
と言う趣旨の親鸞聖人の発言が、歎異抄に載っていました。
親鸞聖人の真意は、「事実として正確かどうかは、重要ではない。」
を安らかにできるか否かが、重要だ。」と、言っているのだと思います。
死が身近なものであった何百年も昔、科学知識も普及していないならば、
これは、人々を安らかにする、心の良薬だったと思います。

ところが、これでは、私の心は安らかになれません。
極楽浄土開闢の物語を信ずるには、科学知識が邪魔をしてしまうからです。
それでも、親鸞聖人が言われたような、心の安らぎを、私も切望しています。

そこで、「11次元世界」の宇宙論が魅力的に見えました。
私自身が信じやすいように脚色してあることを御承知ください。

さて、以上を前提にして、魂は、死ぬ時にどうなるか。
私なりの答えを出しましょう。

死期が近づいてきますと、老人の多くは、痴呆症にかかります。
2009年1月の現在、
私の母も、6、7年前から徐々に痴呆症が進んできています。
寿命はまだまだでしょうが、母の個性、魂は、少しずつ変わってきています。
長い人生で、年輪の様に少しずつ重ねられてきた部分が、
外側の方から、徐々に風化して、幼い頃の魂に近づいて行っているようです。
母の幼い頃を知っている訳ではありませんから、断定はできませんが、
母の言動から、心を推し測ってみると、そんな気がします。
死期が訪れた時の魂も、このような順序をたどるのかは分かりませんが、
たぶん、生まれた時の魂に帰って行き、
そこから先は、宇宙の魂に合体していくのだと思います。
様々な可能性を包括した宇宙の魂の中に帰っていくのです。

個としての魂は、このような道をたどるのでしょうが、
一つの命は、命の集団が作る、大きな命の体系の一部でもあります。
集団としても魂がありますので、個としての命の魂が宇宙の魂に帰った後も、
この魂の片鱗は、集団の魂の中に残留し、他のメンバーに受け継がれます。(魂の承継
集団のメンバーは、次々に入れ替わり、いつかは、全て入れ替わるでしょうが、
集団としての魂が、全く別物になることはありません。
環境に合わせ、年輪を重ねるようにゆっくり変化しながら、受け継がれていきます。
この意味で、命の終わりが、そのまま魂の終わりではありません。

では、生まれる時はどうでしょう。

貝の中で、真珠を育てるときに、最初に挿入する核と同じで、
この宇宙に、一つの存在として現れる事が、魂のスタートです。
スタートでは、まだ白紙の状態であり、言わば、宇宙の魂の分身です。
この直後、人間なら、受精卵となった直後から、
様々なものを吸収し、自身の魂を育み始めます。
染色体DNAに納まっている遺伝子から吸収するものもあります。
年輪を重ねるように、魂が育まれていく始まりです。

命が生まれてくるとき、そこは、既に幾重もの魂に包まれた場になっています。
数多ある可能性の中から、生まれた場と共鳴するものを選びとり、身に付け始めます。
そして、幼少のうちに、魂の基本的な特性を備えます。

世界中に60億の人達がいても、基本的な特性が全く同じ魂は、めったにいません。
全く同じ遺伝子を持つ一卵性の双子でさえ、魂の特性は異なります。
初めは一つですが、二つに分かれた後の体験に違いがあるからです。
同じ体験をしても、この受け止め方には、偶然の要因から違いが生まれます。
幼少の間に、それぞれの魂は、別々の特性を持つようになるはずです。

しかし、現在だけでなく、過去や未来にわたって考えれば、可能性は随分広がります。
基本的特性を同じくする魂は、存在するかもしれません。
これを、「生まれ変わり」と言えば、そうかもしれません。(参考書204)
しかし、個人の具体的記憶まで生まれ変わりの人が受け継ぐかと言えば、
私は懐疑的です。
少なくとも、私が誰かの生まれ変わりだとしても、その人の記憶は私の中にはありません。
前世がどうのこうのと言うのは、どうでも良いことです。
そんな事に振り回されていると、とんでもない詐欺に引っ掛かるかもしれません。
それよりも、自身の魂をどう解釈し、
自分が属する集団に引き継がれている魂から、何を汲み取り、
今生きている自分の魂の成長に活かしていくかが、大事です。

親子の関係を、以上を前提に考えてみましょう。
自分と同じ基本的特性を備えた魂が、どの時代、どの場所に生まれるかには、
幾つかの可能性があります。 親と子は、互いを選ぶことはできない、互いを受け入れるしかないと思われがちです。
しかし、そうではありませんね。
親と子の魂は、互いに引き合って、縁を得たとも言えるのです。
縁あって生まれた親子関係、家族関係だと思うのです。

私は、魂の誕生と終わりを以上のように考える事で、自己の存在に拠所ができました。

では、集団としては、どうなるのでしょう。
集団のメンバーは、集団全体の特徴を表す魂を、少しずつまとっています。
その集団の魂は、少しずつ、年輪を重ねるように変化しながら、
存続の為に、新しい状況に適応しようとします。
もし、適応できる程の変化を遂げられなければ、消滅し、宇宙の魂の元に帰り、
可能性のみで現実を伴わないと言う、目に見えない領域に沈んでいきます。
生まれる時は、その場所は、既に幾重ものより大きな魂に包まれていますから、
個人が生を受けるのと同様に、
そこに現れる魂は、その場と共鳴した特性をどこかに備えているはずです。
即ち、集団の魂に縁ある魂をもったメンバーが集まってくるのだと思います。

修正:2009年8月17日

  





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