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 関川関所のご案内       〈 北国街道とは〉   妙高高原町史  名香山村史(関川宿) 

         北国街道 関川の関所 道の歴史館  
      道の歴史館は貴重な文献資料やジオラマの展示をはじめ、大画面の街道シアターなどで

       関川の関所の歴史を楽しくわかりやすく知ることができ、当時を偲んでいただけます。

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  開館期間   4月10日~11月30日(期間中は無休)    
  開館時間   午前9時~午後5時 (入館は4時30分まで)
  入館料     一般 500円  子ども 300円   (団体割引は下記に問合せください)
     
連絡先
TEL  (0255)86-3280           〒949-2112
FAX  (0255)70-2128           新潟県妙高市大字関川272
ime4 sekisyo@joetsu.ne.jp          関川の関所 道の歴史館
 





[ 北国街道とは ]

 
北国街道は近世五街道の一つである中山道追分宿から分岐し、越後高田城下までさす 。
はじめは福島城下までさしていたが、慶長19(1614)年高田築城とともに高田城下までとなった。
 その後、佐渡に通ずる街道として重要度が高まり、渡海場である出雲崎まで延長して呼ばれるようになった。
(新潟県教育委員会 新潟県歴史の道調査報告書)

 
 [ 関所を象徴する御番所 ]

 
関川の関所跡は、江戸中期、全国53の関所の中で重関所と軽関所に分けられ、越後の関所5ヶ所のうち重関所は関川
だけでした。これは、この地が加賀藩などの参勤交代や佐渡産金が通過する要路にあったためと考えられます。
 関所は幕府の支配をうけ、直接にはその土地の大名や代官を管理しました。関川の関所は、榊原時代には藩士足軽
数名と現地採用の郷足軽など十数名が勤務し、そのなかに常勤の人見女(改め婆さん)は、「入り鉄砲と出女」の出女の取り
締まりをするために土地の女が選ばれていました
 関所の開門は明け六つ(午後6時)から暮れ六つ(午後6時)までで、閉門後は特別の者以外通さず、いわゆる関所破り
は死刑になりました。しかし、関所付近の女が川向こうの野良仕事に出るときは、前もって配布された「女通手札」で通関
できました。幕末になると取り締まりもゆるみ、明治2年には関所が廃止されました。
古文書(古絵図)や発掘調査によって、石垣に囲まれた芝生のところが昔の関所跡とわかりました。
その当時妙高高原町(現在妙高市)の史跡として再現されました。



 北国街道の起源 (妙高高原町史)

 越後府中(現在直江津)と鎌倉との交通路

  1185年(文治元年)8月16日、後鳥羽天皇は、越後、伊豆、相模、上総、信濃、伊予の6ヶ国を鎌倉幕府の分国
  (知行国)とした。
初代の越後守護職には、安田義資が任ぜられた。守護館は、現在の上越市直江津に置かれた。
  府中(直江津)は北陸道を抑えて、京都に対する海陸の要地となった。当然越後国府からの鎌倉街道は次第に整備
  されることになる。近世の関山、関川村を通過する北国街道、現代の信越本線の原型が既に頃ころからあったとしなければならない。

 関の原形

越後国分寺が鎌倉幕府の代々の将軍の寄進状(奈良時代以降の所領や財物を奉納寄進する際、品目、理由などを記した
文書形式)によって大切にされていたのである。

鎌倉街道信越国境の関山、関川村にも当然番所あるいは関の原形に近いものがあったと思われる。また宿場も中郷村
(現在上越市中郷区)の藤沢宿もあったことが、源義経のことを記した「義経記」に「藤沢」の入道が著されている。

室町時代ころから、この信越国境のどこかに関銭をとる関所があったはずである。関山の地名は単に「関に近い山」
の意からきたのではあるまいか。関川・関川村の地名は古代(寛治の越後国古絵図にも記された古い村)からあった。
また、関所の位置としてはここに勝る地形は他にはない。

   
  北国街道のはじまり  ( 妙高高原町史 )

   近代の主な街道

 徳川氏が、前代からの道路網や交通施設を受け継ぎながら江戸を中心に改編整備したものである。家康の命により、東海道
に宿駅・伝馬の制度が施行されたのは、関ヶ原役の翌年(
1601年)で、中山道・奥州道中の宿駅も1602年に設置された。
ついで甲州道中・日光道中も整い、最も重要な幹線道路の五街道ができあがった。

 幕府の交通政策は各藩領にも浸透し、1610年閏2月、信濃川中島から越後福島城主になった家康の六男、松平忠輝は
同年
9月に領内の宿場に条目を出している。

    条々

  一 御伝馬、上様御朱印にて罷通候はば拝見し奉り、馬数改め相立てるべき事
  一 越後府中より之伝馬之儀は、奉行所へ手形を改め見候て相立てるべき事   
  一 手形見せずして通侯ものこれあるにおいては、誰によらずからめ取り、注進申上ぐべき事
  一 泊りにて人夫つかう儀、手形なくして出すべからざる事
  一 入木、入草同然の事
 一 宿銭之儀は御定の如く取るべき事
  一 塩・味噌・雑事一切出すべからざる事
 一 何事によらず狼藉の者候はば注進申すべき事
  一 街中掃除以下油断なき様申付くべき事

 右条々御意に候間、能能申付くべく候、少しも油断これあるにおいては越度たるべきもの也

 慶長十五年(1610年)戌九月廿一日         
                               古間町   きもいり百姓中

 右条目の第一条で幕府の朱印状があれば、私領内でも有効であることを明記しているが、同様の条目が、牟礼宿・
荒井(新井)宿・八崎(鉢﨑)宿・石地等にも令達されているのをみれば、幕府の方針が私領内にも拡大されてきたことがわかる。

 近世の北国街道のはじまりとみて良い。

   北国街道は佐渡路のひとつ

脇街道(脇往還)であったが、幕府は佐渡(佐州)路の一道として五街道に次いで重要視していた。江戸から佐渡にいたる公道で、
幕府役人や鉱山人夫の通行、とくに佐渡金銀の輸送の安全を図って三つのコース(会津若松経由・三国峠越え・北国街道)があったが、
三国通りより距離は長いが平坦路で、最も安全度が高いため一番多く利用された。

松平忠輝の付家老として幕府から派遣された大久保長安は、鉱山の開発、交通制度の確立等に才能を発揮し、徳川家康の財政智能と
みられる人物で、
1603年幕府領の佐渡支配を命ぜられ、金山の直山制(幕府役人の直接支配)と選鉱に西洋の水銀法などの新技術に
よって画期的増産に成功、他方、一里塚や伝馬宿の設置によって街道の交通制度確立に偉業を残している。佐渡の金銀を江戸(江戸城
)へ運ぶのに北国街道の創設整備に意を用したのも当然である。

   土地に密着した街道名

佐渡路の一道である北国街道は、信濃追分から佐渡への渡船場出雲崎までだが、江戸幕府側の呼称であり、この土地では「信州街道」
とくに「善光寺道(みち)」と呼ぶことが多く、また高田からは北に走る街道を「奥州道」、南へ通ずる道を「加賀道」と言った。

土地の住民に分かりやすく、それだけ生活に密着したものであった。
また、わが町では「中山道(なかやまみち)」という呼び名もよく使われていた。
 この呼称の起こりについて「中山の名は名香山(妙高山)に由来するのではあるまいか」(名香山村史)との見方もあるが、頸城郡史稿
に「荒井(新井)駅ヨリ関川駅迄ヲ中山ト称ス、」とある。頸城郡を大別して、東頸城郡方面を東山、西頸城郡方面を西山、中央の頸城平
は新井からは山陵地帯になるため、この区間を「中山」と称したという。中山地域を通過する街道の意で「中山道」の呼称が生まれたので
あろう。新井から関山までの道は中世以前から原通を通ずるほうが早く開けた本道であり、二本木通過は近道として利用されたのではないか。
原通ルートは関川の本流に沿い勾配がゆるやかであるが遠回りである。二本木ルートは急崚な山坂をいくつか上下しなければならない。
しかし、道路は近道がよい。人工的に整備されて歩行が容易になり、また宿泊、休憩などの施設が整えば、利用頻度は増し本街道の地位を
得てくる。こうして善光寺道(北国街道・中山道)の本道になったのではないだろうか。伝承だが、中郷村(上越市中郷区)の藤沢部落は
東の方にあったが、今の位置に移ったということから、中山道の変遍を物語るもののようである。


  関 川 の 関 所

(江戸防衛の関所)江戸時代には、人や物の移動を取り締まり、治安を保つため、交通の要衝に関所や番所(口留番所)が設けられていた。
関所は幕府の配下にあり、番所は各藩の管理下にあった。桶海(旧妙高村)長沢(旧新井市)関田(現上越市板倉区)、また一時は杉野沢
(旧妙高高原町)などにあった番所も関所と呼ぶこともあるが、厳密な意味では番所(口留番所)というべきである。関所は時代により多少
の差があるが、江戸中期、全国では53ヶ所があり、任務の重要性によって「重き御関所」と「軽き御関所」に分けられている。

 全国の関所数53ヶ所のうち、関東に32、甲信越に15、計47ヶ所で関所総数の88%が関東甲信越に集まっている。
(一覧表、道の歴史館に展示)このように関所が江戸の周辺に集結し、またこの地域に重い関所の大部分が存在するのは、江戸防衛、幕府安泰
を関所設置の主要目的にしたことを推測させる。

 関所では「入り鉄砲と出女」の監視がとくに厳しかったことを考え合わせると、いっそうその事情が明白になる。鉄砲武器の江戸への搬入は
反幕運動に利用される危険性があるし、また人質同然に江戸住まいを強制されている大名の妻女が江戸を出て国元へ帰ることは、これまた大名
たちの幕府にたいする不穏な動きと結びつきそうな懸念があり、これらを未然に取り締まったのである。さらに加賀藩を挟んで北東には市振
(現糸魚川市青海)のほか、山口、虫川(共に糸魚川市)に関所を置き、南西の近江国には前期の琵琶湖北岸に剣熊
(ケンクマ)・中山(ナカヤマ)
・柳ケ瀬の三関所を配置したのは、百万石の加賀藩対策だったと思われる。

 所詮、関所は、江戸幕府中心の治安維持のため設けられたものであった。そのための不便や障害を蒙った面も多いが、特に300年近くの
幕府体制下の平和を保つのに、関所が果たした役割も大きかったことは認めなければならない。


  名香山村史」関川の関所

関川関所の地形は謂うまでもなく、信越国境の要路にあたり、前は関川の渓流を挟んで、信州野尻坂、熊坂山に臨み、後は大田切、
小田切の峻嶮を扼す。

越後における関所の起源は、大化改新(タイカノカイシン)後に蝦夷(エミシ・エヒ゛ス・エソ゛)防衛の第一線に設けられた
淳足(ヌッタリ
)ここでは、中世以前の関所の考証は他に譲り、徳川時代の関所について述べることにする。
田中阿歌麿氏は「関川は
1653年、松平光長口番所を置き、1697年徳川幕府が本籍となす」(野尻湖の研究)と述べているが、
出展を述べていない。
然しこの説は信じがたい。松平光長の時代には
既に立派に関川関所と記しており、関川関所詰上役八人は百石以上の士分(武士の身分)
がなっていた。(「越後氏分限帳」→戦国時代から江戸時代にかけて、将軍や大名が作成した家臣の名簿)また「高田城請取記」にも

一 銀参拾匁(モンメ天秤量貨幣3.75g  関川関所人見女紅差料

是は加賀、越中又は江戸より乗物にて通候女改候に付而(シカモ)夏十匁、暮弐拾匁為に紅料為取候   とある様に関所の人見女の
ことさえ現れている。
従って本関所の創設年代は松平光永時代(高田藩主4代目
16191681年、石高26石、在城期間57年3ヶ月、高田の最盛期・家光三代目
(将軍の甥)以前ではなかろうか?高田藩領内の鉢崎(柏崎市)・市振(糸魚川市)の両関所も同様のことがいえるが、共に確たる創設の
年代が不明である。

関所の建物は五間、二間半、詰長屋は弐軒あり、長さ五間、横弐間半であった。間取り図は旧関川村庄屋荒井氏が所蔵している。
 
徳川時代の関所の使命は専ら通行人の取締りにあった。就中「出女に入鉄砲」といわれた如く、江戸から出る女と、江戸へ入る鉄砲の監視は
厳重を極めた。
関川関所の人員組織を見るに、領主の交替の烈しかった高田藩は、関所については大体松平光長時代の職制を踏襲している。
即ち「関川関所二人(高田藩士)・人見女一人(農家)・足軽数名(上番所属) ― 郷足軽小頭一人(大肝煎級) ― 郷足軽九人
(庄屋組頭級)、上番・人見女・足軽は常勤でこの外は掃除人夫が二・三人あった。郷足軽小頭と郷足軽は非常勤で、用のある時だけ出勤する。
光長時代は上役八人であったが、其種類は判らない。


  重き御関所の関川の関所

越後には五ヶ所の関所がある。関川以外は鉢崎(ハチサキ・柏崎市米山)・市振(イチフ゛リ)山口・虫川(共に糸魚川市)の関所である。
(道の歴史館に展示)
このうち関川だけが重き関所で、他はみな軽き関所になっている。軽重の分類は、関所の任務の重要性、身分の高いものの通過頻度数、交通量
の多少などが基準となっているが、それらを検討してみると、関川が重き関所として重要視されたことがわかる。

北国街道が五街道に次ぐ重要な脇街道とされていたのは、幕府直轄の佐渡鉱山の金銀を輸送する往還だったからである。佐渡金銀の輸送路には
会津通り、三国通り、北国街道の三道があったが、道中の安全性から北国街道が最もよく利用された。鉢崎関所も同様であったが、関川はこの
ほか参勤交代の加賀藩主が通過する。同藩主は市振関所も通るが、佐渡金銀の通過はない。佐渡金銀、佐渡奉行関係諸役人、加賀藩やその他諸
大名の行列を送迎する関所は、おのずから人馬物資の交通量が多くなる。関川が重き関所と重要視されたわけである。

「諸国御関所覚書」によると、「重き関所」20ヶ所のうち箱根・碓井・木曽福島・今切などの17ヶ所では、女・禅尼などが関所を通過する
さい(出女の場合)、幕府の御留守居証文を必要とした。この御留守居は江戸幕府の職名で家老支配に属し、主に旗本がつとめ、定員四~六名で、
諸国の関所の女手形などを管掌していた。このことからも関川の関所は、重き関所の中でもさらに重要な関所だったわけである。市振・鉢崎の
関所では高田領主の証文(手形)で通し、山口・虫川の関所では関所役人が調べる程度だった。

   佐渡金銀の江戸輸送の道

北国街道はもともと佐渡の金銀を江戸へ運ぶために整備された政治的路線である。佐渡小木港から御用船で出雲崎へ運び、馬による宿継ぎで
北国街道を経て江戸に送られた。春・秋
2回の江戸送りが普通であったが3回のこともあった。「出雲崎編年史」を見ると一箱に金銀が10
貫目、馬一匹で12貫前後を運んだ。道中には前もって佐渡奉行から先触が出され、沿道の宿々は伝馬の用意をしなければならない。高田藩
では、領内の鉢崎から関川までは責任があるので、足軽同心5~6人を出して警固に当たらせ、各宿場でも宿役人が送迎し、別に先払いを立
てて所定の宿継伝馬の用意をした。御金蔵のあった、出雲崎・柏崎・鉢崎・高田・野尻・善光寺の宿は御金荷が金庫に納められ一泊することで、
村役人が立会のうえ封印し、夜は不寝番をつけて警戒に当たった。

   大名の通行

寛永12(1635)年改正の「武家諸法度」で、大名は毎年4月江戸に参勤することが制度化された。以後交代時期はいろいろ変わったが、
一般大名は隔年交代が通則であった。

 関川の関所を通った大名は、1739年の記録(荒井家より大石家へ本陣「譲証文之事」)には、加賀金沢(前田吉徳(まえだ よしのり)
6代藩)加賀大聖寺・越中富山・越後高田(松平越中守家
113万石)・越後村上・越後長岡・越後村松・越後新発田・越前勝山の関札
(宿札)が載っており、このほか越前丸岡・越前大野等の北陸諸藩主がある。

 大名の往来には、前もって街道の宿々に対し通知が来る。18557月大肝煎所(荒井組)から次のような連絡が、稲荷山新田・二俣村・
田切村・田口村・毛祝坂新田・上原村・関川村の各庄屋へ届いている。

(高田の殿様が、7月29日善光寺にお泊りになり、81日野尻宿にてお昼休み、同日関山宿お泊り、翌日荒井(新井)宿お昼休み)にて
御通行になる予定につき、途中の村々は道筋の清掃、村内の砂盛り、村境の建札をし、庄屋は羽織・股引・脚絆を着け、組頭・百姓代は股引・
脚絆で村内を案内、そのとき各村から箱持2人ずつ差出すこと。

店屋では店頭につるした商品やのれん・看板など、御通行の節はおろさせること。御通行のことは寺社や小百姓へも知らせて、支障のないよう
取計らうこと。)

  右の前触れ通り、殿様の関川通行があったので、関川村では次の通り道中奉行へ報告している。

 殿様、当月朔日申上刻(午後三時半ごろ)、当宿へ御着き遊ばされ候につき、書付をもって御届申上げ奉り候、以上   
 安政二年  荒町組 関川村  問屋 弥五左衛門  庄屋 安平  問屋 又二郎  庄屋 徳左衛門   御奉行所(関川村御用留)

  御定賃銭 (幕府が定めた公定賃銭       

御朱印(将軍の朱印状)、御証文(老中等の証明書)による通行は、宿場に人馬賃銭を払う必要がないが、大名の通行は御定賃銭で人馬を雇った。
それも大名の石高に応じての人馬数に限度があり、それを超過した分は相対賃銭(宿駅の人馬役と直接交渉をして決めるもので、御定賃銭の2倍
が標準)で雇わなければならなかった。

参考資料:文政5年参勤大名の御定賃銭使用人馬数  *1822年中山道方面

5万石以上  人足25人  馬 25匹  2日間(大名通行当日と前日か翌日)

10万石以上    同じく         3日間(大名通行当日と前後各1)

特例  金沢藩主は当日100名・100匹、前後10日間は25人・25匹宛)

御定賃銭は、各宿の高札に隣接宿までの額が掲示されていた。1711年決定の賃銭が元賃銭といわれ、その後賃上げのときは、期間を定めて
元賃銭の何割増しと称して値上げし、期限がくると元賃銭に復した。しかし宿々の割増し要求は繰り返され、道中奉行の許可を得て何度も
御定賃銭は変わっている。

 1786年10月、高田藩主(榊原家1741年~1871年・明治4年まで129年9ヶ月)経由で、次のように7年期間で2割増しを願い出で、
同年12月道中奉行の許可を得た。
私領分越後国頸城郡関川宿・田切二俣宿(合宿)・関山宿・高田町・鉢崎宿(柏崎)・右五ヶ宿之儀、
国往還継場に御座候処、近年不作打続(いつまでも続き)、諸色高直にて困窮相募(有様)、特に冬に至(ある極端な状態や段階)候ては、
雪深く馬通路相成り難く駄荷之分人足持ち継送候故(雪が深く馬が使えないので人足で次の宿に運んでおります)過分之人足懸り候処、
助郷村にはこれなく、宿場相続相成り難く候に付、当午年より七ヶ年之間、弐割増銭申付候之様相願候に付、吟味仕候処、困窮相違御座
なく候間、中山道同様七ヶ年之間、弐割増銭付候様仕度、此段
(うかが)い奉り候、      以上

  天明六年十月晦日            榊原式部大輔

これに対し、幕府の許可が出て、二割の割増しのうち五分は宿方へ、五分は働きの馬方共へ分け、残り一割は役所へ上納し年季明けにこれが
取り計らいを公儀に伺って決めることになった。 その後も
1807年、二年間の一割増し、1866年、七年間の六割増しなどが許可されている。
同年の御定賃銭は次の通りである。

         定                関川宿

 当寅(トラ 十二支の第三)正月より来(サル 十二支の第九)年十二月迄七ヶ年之間、駄賃(運送賃並(ならびに)人足賃銭六割
これを増す。

  野尻宿迄  人足壱人 四十五文  本馬一疋  九十 文  軽尻壱疋 五十九文

  田口宿迄  人足壱人 四十五文  本馬一疋  九十 文  軽尻壱疋 五十九文

  二俣宿迄  人足壱人 六十九文  本馬一疋 百四十弐文  軽尻壱疋 九十壱文

 右之通これを取るべし、もし相背くにおいては曲事たるべき者他、

 慶応二(1866年)寅年四月     (道中)奉行

 右の文中、本馬(ホンマ)は宿場において駄賃の一で、一駄分の荷物は四十貫が正規、三十六貫に減量したこともある。軽尻は荷をつけない
馬に人が乗ることだが五貫目までの手荷物を乗せることは許された。ただし人を乗せないときは二十貫目までの荷物を認めた。人足一人が
運ぶ荷物は五貫目とし、超過分は賃銭が割増しとなった。

 商  荷  物

公用通行は無賃か公定賃銭であるから、宿場にとっては負担になってもあまり収益にはならなかった。したがって各宿場は、商荷物や旅人
から相対賃金をとって一息つこうとした。

信越両国間を流通する商品の主なものは、越後から信州へは、塩・魚類・米など、信州から越後へは、大豆・小豆・麦類などであったが、
なかでも重要なものは、信州へ送られる塩荷物である。
1843年の大古間宿では「越後から信州へ入る塩荷物はおよそ二万五千~六千駄」
といわれ、明治八年の書類によると、関山~長野間に動く塩荷物は一年約二万駄だという。
《信濃町誌》塩とならんで多いのは四十物
(塩干魚類)であった。

 これらの商荷物は、原則として宿継ぎで送ることになっていたので、宿場のだいじな収入源になっていた。したがって、商荷物を同じ馬
で目的地まで付通しで運んだり、ほかの道路としては、北国街道東側の関川の大谷~蔵々~兼俣~熊坂(又は柄沢・古海)~野尻
《名香山村史・天領領による》
を通る道、富倉峠を越える飯山道、または開田越えの道、あるいは荒井(新井)~杉野沢間を北国街道西側
でたどる細道もあった。
 付通しや別道による運送は、本町域宿々の浮沈にかかわるもので、しばしば訴訟が起きている。

  名香山村史」川東の脇街道

本村(旧妙高高原町)の関川~上原~毛祝坂~田切~二俣より坂口新田(旧妙高村)を経て関山に通ずる北国街道(中山道、又は加賀街道)
に対し、関川の渓流を挟んで東岸にこれと並行して信州に入る一筋の道路がある。俗に「川東の道」と称しているが、徳川時代には北国街道
(善光寺道)は本街道としていたので、川東の道は完全な脇道(或は横道)であった。

本来ならば、脇道は近村の者以外、旅行者やその貨物が通れない筈であるが、特に殊に旅行の通行取り締まりの厳しい関川関所の所在を無視
して、殆んど自由に此の街道を人馬が往来したことは、何としても不思議なことであった。思うに、これは信州飯山方面に通ずる近道という
地理的理由もあったであろうが、北国街道の諸村が高田藩私領であったのに対して、川東の諸村(大谷・蔵々・兼俣)は代官所の支配する
天領であったからであろう。

但し、諸村には各々の口留番所があって、一応交通の取締りをしていたことは事実である。
口留番所はその所在地の部落民が交代して、番人となっていた。しかも番所の修復なども大方部落民の負担であった。その為に番所の村落には
小役銀御免の恩典が与えられていた。

旅人の往来を監視すると共に、物資が藩外に流出するのを取締り、むしろ後者に重点をおくことであった為か、関所に比べ必ずしもそれらが
保たれていなかった。

 川東の街道は関山から分かれて、大谷、蔵々、兼俣、信州柄山、熊坂村を過ぎ山越えをして野尻に行く道と、柄山で左に折れ、信州古海村に
通ずる間道脇道であった。この外、荒井(新井)から分かれて長沢を過ぎ、信州飯山に通ずる一線、さらに開田峠を越えて井口へ出る街道など
もあったが、いずれも北国街道に対しては間道であり脇道であった。しかもこれらの間道は例外なく、旅人、物資とも信州の往来が殆んど自由
であった。

 そのために、蔵々村の後藤家などは公然と人馬の宿継をなし、看板を下げずに旅人宿を経営して、商業資本家として栄えた。脇道交通が頻繁
に行われ、そのために北国街道宿場の迷惑が甚だしかったので、時々訴訟沙汰となったことではあるが依然として衰えなかったことで、

1825
年8月25日にも、中山(ナカヤマ)宿場の問屋が高田呉服町池田屋に集合して寄合会議をし、取決め行った。このような取決めが何回行われ
、抜荷を取り押えて訴訟をしても、結局はうやむやに終わってしまった。要は天領対私領の問題ではなかろうか?

 天領荒井(新井)代官、川浦代官は高田藩(榊原藩主)に対してのみならず、幕府旗本に対してさえ、権力を振るったことは資料によることで
も明らかである。
 天領の威力は絶大であった。

 田口村の口留番所は田口から川向いの蔵々及び兼俣に通ずる作業道のような所にあったが、1712年高田藩主(松平越中守家・厳格な施政を
行った・
313ヶ月)から始まった。

 天領の蔵々のはじまりは、浄蔵貴所と申す山伏が居住し、その子孫が土着して、蔵々村と名付けた。高田藩主松平光長(16241681年高田の
最盛期・光長は三代将軍徳川家光のおい)の時代に村高六石壱合において一村を開発したが、松平没落後、大谷村庄屋の支配を受け、枝村となった
ことで殆んど一世紀の間、口留番所その他経済上、大谷村の搾取を忍んでいたが、
1765年訴訟を提起して、大谷村の支配を脱した。

 兼俣は天保九年には、家数十軒、人口四十二人、馬拾頭、村高七石二斗四升九合の山間村であった。


 
商品の物流

 北国街道の信越物資の交流は、城下町高田を起点として発達した。高田小町三町は春日山時代(上杉家13431598年)に塩問屋を業とし、
松平忠輝(
16101616年・家康の六男・福島城→高田城築城1614年)にも特許を得、松平伊予守時代(16191624年・家康の孫)においては、
信州からは木綿・紙、移出品は塩・四十物・鍋・小間物などであった。

 信州馬宿は小町の特権であった。信州から入り込む商人は、背負歩行人に限らず、荷を小町問屋以外の町々へ卸すことを禁ぜられ、牛馬を他町
に入ることを許さなかった。松平光長藩主時代、上小町問屋七軒、中小町十軒、下小町一軒の十八軒あったという。

「高田市史」によれば、松平越中守時代(17101741年・六代徳川家宜~八代吉宗)の信越両国間に流通する商品は、
移出品  塩 鮭 鰤 真鱈 四十物類 鉄銑 干物類 生魚類 真綿 八講 麻布 加賀笠 御座縁取 米

移入品  煙草 縞木綿 木綿 繰綿 大豆 小豆 大麦 小麦 蕎麦 種荏草 苧種 胡麻 油糟 白苧 金引 河苧 濃笠 紙類 
木曽塗物 松茸 栗柿 くるみ からし

これらは、直江津港の入出品も考慮しなければならない。この通路は北国街道である。道の交通を賑わしたものは、各年度意を通じて
越後から輸送する米であった。

川東の間道、蔵々・兼俣から信州へ流れ込む米だけでも年々千俵に達していた。これらの 輸送米の殆んど全部が商人の扱う所謂商人米であって、
信州、上州或は江戸商人の買付米か、または商人の手から信州地方の天料、私領への売渡し米であった。時には天料の石代米が江戸へ輸送されることもあったが、
それも極めて少量であった。