[ 北国街道とは ]
北国街道は近世五街道の一つである中山道追分宿から分岐し、越後高田城下までさす 。はじめは福島城下までさしていたが、
慶長19(1614)年高田築城とともに高田城下までとなった。その後、佐渡に通ずる街道として重要度が高まり、渡海場である
出雲崎まで延長して呼ばれるようになった。(新潟県教育委員会 新潟県歴史の道調査報告書)
[ 関所を象徴する御番所 ]
関川の関所跡は、江戸中期、全国53の関所の中で重関所と軽関所に分けられ、越後の関所5ヶ所のうち重関所は関川だけでした。
これは、この地が加賀藩などの参勤交代や佐渡産金が通過する要路にあったためと考えられます。 関所は幕府の支配をうけ、
直接にはその土地の大名や代官を管理しました。関川の関所は、榊原時代には藩士足軽数名と現地採用の郷足軽など十数名が
勤務し、そのなかに常勤の人見女(改め婆さん)は、「入り鉄砲と出女」の出女の取り締まりをするために土地の女が選ばれていました
関所の開門は明け六つ(午後6時)から暮れ六つ(午後6時)までで、閉門後は特別の者以外通さず、いわゆる関所破りは死刑になりました。
しかし、関所付近の女が川向こうの野良仕事に出るときは、前もって配布された「女通手札」で通関できました。
幕末になると取り締まりもゆるみ、明治2年には関所が廃止されました。古文書(古絵図)や発掘調査によって、石垣に囲まれた芝生の
ところが昔の関所跡とわかりました。その当時妙高高原町(現在妙高市)の史跡として再現されました。