歩くと言うこと

(盲人歴25周年記念投稿なんちゃって!)

 1973年6月26日。私が順天堂大学付属病院眼科を退院した日である。
 同年4月、大学に入学して1週間目、朝目が覚めると、明るいはずの部屋が薄暗い。段ボールの大きな字もぼんやりしているし、階下に下りる階段の角も分からない。とにかく大学の医務室に行くが、まだ校医の先生がきてないとの事で、近くの国立病院を紹介される。
 大学の事務員さんに付き添ってもらい国立病院の眼科を受診。診察結果は、「網膜剥離(もうまくはくり)」とやらで即入院。診察室から車椅子で病室に運ばれ、ベッドに寝かされてしまった。しかも、頭の両サイドに砂枕を置いて動かないようにされてしまう。首から下しか寝返りができないと言うのは、非常に苦痛である。

 さらに、光が入らないように一日中アイマスクをしているので、徐々に昼と夜が逆転してくる。昼間はうつらうつらとし、夜中はぜんぜん眠くなく、すっかり深夜放送のファンになってしまった。
 でも、何と言っても一番困ったのはトイレである。ベッドに寝たままで、大小とも用を足さなければならない。しかし、これがなかなか出ないのである。最初は、まる二日ほど出なかった。おしっこは、したくてしたくてたまらないのだが、チョロッとも出ない。お腹がパンパンに張ってメチャメチャ苦しかった。
 二日目の夕方、やっと出たのだが、ほぼ溲瓶(しびん)がいっぱいになった。それからは、小の方は順調に出るようになったが、大の方は難しかった。それ用の便器が有るのだが、寝たまま出すのには苦労した。しかも、用を足した後、立てていた膝を伸ばすと、ベッドの中にこもっていた臭いが襟元から噴き上がってくる。あ〜思い出しただけでもたまらん!

 後日、起きていいようになった時、トイレで用を足せるのは、何と幸せな事なんだろうとしみじみ思ったものである。
 この頃は、手術さえすれば元のように見えるようになるもんだと信じていたから、見舞いに来てくれた先輩や同級生、年齢の近い看護婦さんとアホな話をして笑っていた。しかし、1週間たっても2週間たっても診察するだけで手術をしようと言ってくれない。後で聞いた話だが、この病院で手術するには難しかったそうである。 とにかく、親戚の紹介で、ゴールデンウィークあけに順天堂大学病院に転院した。 しかし、ここでも診察の毎日。なかなか手術してくれない。やや不安になるが、それでも99パーセントは成功するもんだと楽観的であった。

 「網膜剥離(もうまくはくり)」と言うのは、当然ながら網膜がはがれている所は見えないが、はがれていない所は見えている。同室の方が持っていたテレビをこちらに向けてもらうと、浅田美代子が「赤い風船」を歌っていた。したがって、私が見た最後の芸能人は、浅田美代子である。
 一番最後に見た物は、安定剤でうつらうつらしながら見た、手術室の無影灯(むえいとう)であった。
 手術の翌日、執刀した教授の回診があって、大名行列みたいにぞろぞろ引き連れてやってきた。術後の痛い目を順番に覗いていく。「うん、きれいに引っ付いている。」と教授は言っていたのだが、三日たっても四日たっても見えてこない。それどころか、網膜がはがれず見えていた所まで見えなくなっている。
 「これは、どないなっとんじゃぁ!」と思っていたら、担当医から「2度目の手術をしても、おそらく99パーセントダメだろう。」と言われた。「おいおい、話がちゃうやないか!」と思うものの、今更どうしようもない。母に伝えると泣いていたようだが、本人さんは障害者になったと言う意識もないし、あまりショックも感じていなかったように思う。

 いやっ、ショックと言うものを通り過ぎて、いわゆる「頭が真っ白」状態だったのかもしれない。いつもアホ話をしていた看護婦さんが、いつもの明るい声で冗談ぽく「自殺なんか考えたらダメよ!」と肩をポンとたたいていった。自分としては、悲嘆に暮れたり、これからどうしようと深刻に考えこんでいた訳でもない。周りからは、そう見えたかもしれないが、なんせ「頭真っ白」状態だから、ほとんど何も考えていなかったと思う。ただ、深夜になると自然に涙だけが流れた。

 退院して、他の病院の診察を受けてみたが、どの病院でも結果は同じだった。
 7月の下旬、郷里に帰る。すぐに母が、近くの視覚障害者の方から点字板を借りてきて、点字の練習が始まった。それに、コインの識別、マージャンの盲パイの練習など、指先の感覚訓練である。な〜んもする事がなかったので、暇つぶしにおもしろがってやった。8月の中旬に、どこからか「日本ライトハウス」のパンフレットを手に入れてきた。これまた暇だったので、面接を受けて9月から入所する事になる。
 入所してよく言われた事は、突然失明すると、短い人で2・3年、長い人だと4・5年くらい鬱々とした日々を送るのだそうである。家族や友人知人からいろいろ言われて、やっとこういう施設に入所する人が多いそうである。

 よく2カ月で…と驚かれるが、私としては、なったものはしゃあないし、家でごろごろしてても暇だし、驚かれる事に驚いた。それよりも驚いたのは、自分としては中途失明者の訓練施設に来ているつもりである。にも関わらず、入所している人たちは、走るようなスピードで歩いているように、その当時の私には思えた。コーナーもさっと曲がるし、階段もたったっと登り下りする。しかも、外出するにもステッキ1本でどこへでも行く。
 私は、退院してから東京にいた時も、郷里に帰ってからもどこかに出かける時は、常に家族か親戚の誰かに手引きをしてもらっていた。それが当たり前だと思っていたし、一人で外出するなどと言うことは、考えてもいなかったし、できるとも思えなかった。
 センターの向かいに公園があって、感覚訓練として二人乗りの自転車に乗ったり、野球やゲームをしていた。入所当時は、センターと公園を隔てている5mほどの道路が恐くてわたれなかった。

 まもなく歩行訓練が始まり、ステッキの使い方やまっすぐに歩く練習をした。向かいの公園で、何の目標もなしにまっすぐ歩く。自分では、まっすぐ歩いているつもりなのだが、ほとんど左右のどちらかに曲がってしまう。それから、2本の材木を肩幅に置き、その幅でステッキを左右に振る練習。えっ!まだするの!!と言うくらい延々とやらされた。ステッキを使っての階段の登り下りの練習などをやって、やっと外に出られるようになる。
 センターには、センターの周辺から最寄り駅までの立体地図が有り、頭の中に大まかな地図を描く。最初は、近くの喫茶店、次はその先のお風呂屋さん、ポスト、タバコ屋さん、花屋さんと徐々に距離を伸ばして行き、駅までの往復ができるようになる。
 その頃には、喫茶店のドアベルの音、タバコ屋さんの自動販売機のモーター音、花屋さんや魚屋さんの臭いなど、目印… いやっ耳印とか鼻印を頭の中の地図に付けていく。この地図がしっかりできてないと、次の段階で歩行訓練士の指示したコースで駅までの往復をするときに困る。自分のいる場所が分からなくなり、「ここはどこ? 私は誰?」状態になってしまうのである。

 ハイキングや登山で地図を読むのが必要なように、頭の中に地図が描けないと、なかなか単独歩行ができない。
 電車の乗り降りやホームでの移動などを訓練した後、総仕上げと言うか卒業試験が有る。私の場合は、梅田の阪急デパートに行って、地下の食料品売場で「小岩井の笹チーズ」を買ってくると言うものだった。卒業試験のパスに気をよくして、ある計画を立てた。
 その計画とは、郷里へ一人で帰省する事である。正月休みの時は、大阪まで親に出てきてもらった。3月は、何とか一人で帰ってみようと思った。しかし、親に言えば反対されるのに決まっているから、黙って帰ることにした。大阪駅までは行った事が有るので問題はない。
 大阪駅で東海道線に乗り新大阪駅。新幹線の切符を買って岡山駅へ。人が多いので尋ねる人にはことかかない。しかし、通り過ぎる人も多いし、黙って立ち止まれたのでは、こちらが分からない。生来、面倒臭がり屋で、いちいち尋ねるのは面倒だったが、「人に尋ねるのも歩行技術の一つである。」と訓練士に言われていた事もあって尋ねまくった。

 岡山駅では、ほとんどの人が在来線に向かうので、その流れに沿って歩いて行くと、スムーズに乗り換えができた。宇野駅で連絡船に乗り換え、高松駅で予讃線(よさんせん)松山行き特急に乗り換えた。郷里の駅、駅周辺、実家の周辺は、頭の中に地図ができているから、ここまで来たら、成功したようなもんだ。

 郷里の駅でタクシーに乗り、実家の近くで下りる。用水路に沿って50mほど歩くと、実家のブロック塀があった。塀に沿って歩き、門を入り玄関に入る。やった〜!大成功!! 来客だと思って出てきた母が、私を見て驚き、怒り、喜んでくれた。私も非常にうれしかった。一人で歩くと言うこと、歩けると言うことが、こんなに楽しく、これほど素晴らしい物だと思った事はなかった。
 晴眼者から見ると、無謀な事のように思えるかもしれない。しかし、歩行訓練を受ける中で、ステッキを十分活用し、慎重且つ大胆に行動すれば、何とかなるように思えた。障害者または傷害を英語では、「Handicap Parson」、「Disability」と呼ばれるが、最近では「Challenged」(チャレンジド)とも呼ばれるそうである。「挑戦する」「意欲的に」「前向きに」と言ったような意味であろうか。私は、「無謀」と「挑戦」とは、紙一重のようでもあり、全く違うようにも思える。

 障害者運動の成果により、点字ブロックや音響式信号機も増え、単独歩行がしやすくなった。だが、やはり手引きをしてもらって歩く方が、断然安全だし、精神的にも楽である。最近はガイドヘルパー制度も充実してきて、単独歩行ができない人でも外出しやすくなった。しかし、単独歩行ができる方が望ましいと思う。なぜなら、有る程度単独歩行ができないと、手引きに依存してしまい、手引きする人にかなりの負担を強いるからである。
 ガイドヘルパーをしている知り合いの女性から、視障者の方をガイドヘルプしていて、京都の市電から下車する際、高低差があったので「高いですよ。」と声をかけたにもかかわらず、視障者の方は、ステッキで高さを測ることもなくぴょんと飛び降りたそうである。思ったより高かったのか足腰が弱かったのか、着地したとたん、ホームから車道へ転げ落ちた。知り合いの女性も、引っ張られて一緒に転げ落ちてしまったそうである。幸いにも車が走っていなかったから、最悪の事態は避けられた。

 ガイドヘルパーを30年ほどやっていると言う人が飛んできて、知り合いの女性を「私たちガイドヘルパーは、視障者の安全に責任を持たないといけません。」と頭ごなしにガミガミと叱責されたそうである。
 上記の場合、視障者がステッキを使って慎重に下車していれば何の問題もなかったように思う。さらに、ベテランのガイドヘルパーの方がおっしゃる「安全に責任を持つ」とは、どう言う事なのか。この「責任」と言う言葉をどのような意味でお使いになったかは知らないが、7・80kgも有る視障者がホームから落ちかけている時に、女性の力で止めることができるだろうか。それとも、幼児を扱うようにだき下ろせとでも言うのだろうか。
 ガイドヘルプ中に、暴走車が迫ってきた場合、身を呈しても視障者を守るのだろうか。あまりに軽々しく「安全に責任を持つ」などと言って欲しくない。もし私が晴眼者だとして、ここまで責任を持たなければならないのなら、手引きなどようしないと思う。上記の場合、視障者が少し気を付ければけがなどしなかったと思う。

 本当に安全を考えるなら、視障者に「ちゃんとステッキを使ってください。」と注意した方が、これからのためにもいいと思う。
 少数だが、長年ボランティアをやっておられる方の中には、「障害者と接するには、こうするのだ。」「障害者の事は、すべて分かっている。」「お世話してあげている。」など、驕り(おごり)とも取られ兼ねない言動をする人がいる。視覚障害者だけに限っても、視力、視野、年齢、体格、失明してからの期間、単独歩行ができるかどうかなどで、必要としている事柄が変わってくる。よく「障害者は、不幸ではなく不自由なだけである。」と言われる。この「不自由」と言うのが、障害者によって千差万別なのである。

 視障者が手引きを受ける場合は、できるだけ晴眼者に負担をかけないように配慮するべきだし、晴眼者は固定観念で視障者を見ずに、白紙の状態で接していただきたいものである。失明して間もない人や高齢になって失明された方などは、かなり気を配らなければならないが、かなり単独歩行ができる人などは、肩や肘を貸すだけで勝手についてくると思う。
 手引きを受ける立場の者の一方的な意見であって、お気に触った方がおられたならお許しください。これからも一人で歩ける素晴らしさを感じつつ、またいろいろな人との出会いを楽しみに歩いて行こうと思います。

 「追記」
 大阪に、視覚しょうがい者の方も含め、登山、アウトドアに親しみ、活発に活動している山の会、「ハイキングクラブ かざぐるま」があります。その会のホームページ、「コラム」からの転用です。

文責:新潟あいゆー山の会事務局

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